明治天皇のすり替え説とは?家系図は?

皇室見聞録管理人の咲耶です!

本日のテーマは「明治天皇のすり替え説とは?家系図は?」です。

歴代の中でも知らない人はいないというくらい超有名な明治天皇。

明治神宮のご祭神としても知られるお方ですが名前だけはわかるけど実際にどんな人かって知ってる人はそんなにたくさんいませんよね。


しかもすり替え説まであるって私は初耳でした!

テレビで活躍している竹田恒泰さんは玄孫に当たるということですが、どんなつながりがあるかということで家系図も知りたいところ。

そこで今回はこれらのことに関してのさまざまな情報を見て行きたいと思います。

明治天皇とはどんな人?

テレビで活躍中の竹田恒泰が家系図を辿ると玄孫だと公言していることでも有名な明治天皇とは・・・1852年11月3日、京都石薬師の中山邸で孝明天皇の第二皇子として産まれました。生母は中山慶子でそのまま生母の実家である中山邸で4歳まで養育されました。

御称号は祐宮(さちのみや)といい、生後8日目に父帝が命名しました。

その後、1856年に宮中に転居し、父帝にほかの男のお子様が産まれなかったため勅命により正妃である准后女御・九条夙子の実子とされ、深曽木の儀を行い親王宣下を受け「睦仁」という諱名を賜る。この時祐宮睦仁親王は9歳。

これを見てわかる通り側室の子供だったんですねー。

昔は子供が産まれても夭折してしまうことが多く、正妃の九条夙子が産んだ二人の皇女は幼少期に亡くなってしまっていたんです。

父帝は側室との間に第一皇子・妙香華院をもうけていましたが、この皇子も産まれて間もなく亡くなってしまったため皇位継承する立場としての教育を受けて育ちました。

祐宮睦仁親王が即位したのはわずか14歳の時。父が痘瘡(天然痘)で急逝したため1867年に践祚の儀を行い皇位につきました。

元服前の践祚だったため立太子礼を行わずに即位しています。

父の死因については公には痘瘡となっていますが実は暗殺説も根強く残っているそう。

これだけじゃなく後ほど触れますが近年、囁かれている睦仁親王のすり替え説も暗殺説同様に昔から語られているそう。

理由はどうあれほんの14歳で即位しましたがこの時期は幕末の動乱の真っ只中。

歴史上でも有名な大政奉還は睦仁親王が即位して間もなくのこと。

大政奉還とは、ものすごく簡単に説明するとそれまで徳川幕府が握っていた政権を朝廷に返したという事柄のことですが、14歳と言うと中学生ですよ。中学2年生。

私がその年齢の時なんて友達と遊ぶことややりたいことをしていた年齢ですが、すでにこの歳にこんなに重大な責務を負っていたってすごいですよね!

私も一度京都御所に見学に行ったことがありますが大政奉還で徳川幕府最後の将軍・慶喜が朝廷に政権を返したという部屋を案内されましたが歴史上の一大事を行なったのがこんな少年だったとは・・・しかもこの少年にすり替え説があるということも本当には驚きですね。

政権を朝廷に返したとはいえ徳川慶喜はその後も政治に関わる事項を任されていましたが、新政権を取り仕切るべき陛下が若干14歳では慶喜の力を借りないとなかなか厳しいものがあったのかもしれませんね。

その後、完全なる天皇を中心とする新政府を作るため「王政復古の大号令」を行い、新政府の基本方針となる「五箇条の御誓文」を発布し、この時にそれまで「慶応」だった元号を「明治」に改元。

この時一代の在位中に一つの元号とする制度「一世一元の制」を定め、それ以降現在まで在位中の改元はなくなりました。

徳川幕府が江戸城を開城した半年後、初めて江戸に行幸した陛下は「江戸」を「東京」に、「江戸城」を「東京城」に改称し、一度京都に戻ってから翌年東京に移られました。

初めて江戸城に入られた陛下は「江戸城は広いなー」と発言されたと言われていますが、若干14〜15歳の少年ですからすり替え説が出ている人物だったかもしれませんが無邪気だと言えば無邪気だったんでしょう。

これでそれまで京都にあった都が東京に遷ったことになります。

京都を出る時に陛下は「ちょっと(東京に)行ってくる」と言って旅立ったということで、京都の人たちの中には陛下の本宅は京都の御所で東京は別荘。いつか戻って来られる・・・という認識を持つ人がいるかもしれませんね。

このように都を東京に遷してからは版籍奉還や廃藩置県などを行い中央集権化を確率し、国民は平等になり苗字も持つようになり近代国家の礎を作りました。

宇多天皇以降、外国人との面会もされていませんでしたが陛下は即位後、頻繁に外国の要人と会談もしています。

日本で初めて天皇の権限を明記した大日本帝国憲法を発布し、これは立憲君主制国家確率の基礎となりました。

また、日清戦争や日露戦争では陛下自ら本営で指揮を取り日本を勝利に導き、海外の大国の仲間入りをするべく軍事力、経済力の強化に尽力しました。

今の陛下は国民の前にお出ましになる時にはスーツをお召しですが、明治天皇の写真は軍服姿やヒゲのご立派さに目が釘付けになりますね。まあ、この写真がそもそもすり替え説の元になっているわけですが、ここまで挙げてきたように近代日本の基礎を作った指導者として日本だけでなく世界中からも注目され、その功績などから明治大帝、睦仁大帝などと呼ばれることも。

大変自分に厳しい方だったようで、日常生活は質素を守り、兵たちと苦楽を共にする姿勢や威厳の保持に努めたといいます。

側室の園祥子との間に産まれた皇女の東久邇聡子の話によると、記憶力が優れていて書類は必ず目を通し問題点を書き入れ、内容は全て暗記して違いがあると注意したとのことが、さすが日本を近代国家に導いたお方だなという感じがしますよね。ただし、すり替え説が本当ならもしかしたら家系図ではわかりませんがニセモノの陛下だったかもしれませんが。

ここらへんはあの怖そうないかつい見た目通りといった感じですが、その一方でお茶目な一面をお持ちだったそうで、例えばご自分の奥様や女官たちのことをあだ名で呼んでいたとか。

さまざまな改革を精力的にこなし、自ら戦争に赴き指揮を執るなどパワフルなイメージの陛下ですが、やはり病気になり歳をとると普通の人と同じように気弱にもなるし不安で弱音を吐いたりもするでしょうね。

実際に晩年、糖尿病が悪化して体調が思わしくなかった時には「朕が死んだら・・・」と弱音を吐くこともあったとか。

1912年、糖尿病の悪化で尿毒症になり崩御されましたが、大喪の日に陸軍大将だった乃木将軍とその妻をはじめ多くの人が後を追って殉死したというんですから人望の厚さは計り知れません。


明治天皇のすり替え説とは?

偉大な功績を残したことで知られていますが、かなり以前から実は陛下はある時点で違う人物が成り代わったんだというすり替え説が語られているんです。

皇族の方々はとかくこういう噂が浮上しますよね。現に今は皇太子さまの長女・愛子さまが実はニセモノで本物は御所の奥で人目に触れることがないとか、国民の前に出てきているのは影武者、替え玉とか。

この場合はご本人はどこかに隠れていて違う人が国民の前に出るということなのですり替え説とはちょっと違うかもしれませんがそれに近い噂というのはそんなに昔からあるものなんですねー。

ここで囁かれている噂の詳細は実際にあったことだとしたら天皇家の皇統が正当に受け継がれてきたものではないということで家系図がおかしくなることになってしまいますからかなり重要なことになると思いますが、この時代には愛子さまのようにただ出てこないというようなものではなくかなり恐ろしい話になってきます。

それが暗殺ということになるわけですが、睦仁親王は実は暗殺されて別人が即位したというすり替え説が昭和初期の段階ですでにあったということです。

この件について少し触れてみると、睦仁親王が即位する前と後ではまるで風貌も性格も違っていて、どちらかというと細身でナヨっぽい感じの体格だったはずが体重90キロとも言われているくらいの大男になっていること、虚弱体質で運動オンチ、16歳のころでも女官と遊戯をすることが好きで政治力などが期待できるような人物ではなかったはずが若くして即位してからの政治力は眼を見張るものがあったということ、睦仁親王は裕福に育ち幼少期に種痘を受けていたため疱瘡にはかかっていなかった。そのため顔にアバタはなかったはずが即位後は口の周りにアバタがあり、それを隠すためにヒゲを伸ばしたと言われていること、字が下手だったはずが上手になっていたこと、利き手が右利きから左利きにかわったことなど、すり替え説が事実であるとされる証拠がいくつもあるということなんです。

今のように国民が皇族方の顔を知っている時代ではなかったため例え違う人だったとしても気がつかれることはないかもしれませんが、側に仕えている人たちにはバレバレなんじゃないかというくらいの変貌ぶりですね。このことをのちに証言している人や睦仁親王とは別人だと話す人はかなりたくさんいたということです。

このすり替え説では睦仁親王に成り代わった人物も特定されていて大室寅之祐という人なんだとか。

この人物とは何者?ということになってきますが、この人は家系図を辿ると後醍醐天皇の血を引く子孫だということです。

後醍醐天皇の時代に遡ると、南北朝時代になりますがこの時には日本に二人の天子が存在するという乱れた家系図が出来上がる時代でした。

当時、足利尊氏が擁立した北朝の光明天皇と吉野に逃れた南朝の後醍醐天皇の二つの朝廷が存在するという時代。

約60年続いた二つの朝廷争いは南朝最後となる後亀山天皇から北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り南北が一つになりま収束を迎えました。

ここからは北朝の家系図が正統とされたわけですが、南朝の子孫を長州で匿っていて明治維新の時に京都に入ったと言われ、睦仁親王が暗殺されて大室寅之祐なる人物が即位したというすり替え説が昭和初期から語られているということ。

もしもこれが本当だとすると、現在の家系図の皇統は明治で一度断絶して新たに皇統が出来上がったことになりますから現在の皇室はそれ以前の皇統とは断絶しているということになっちゃいますよね。

睦仁親王の父帝が突然天然痘で崩御したというのも実際のところ怪しいとされていて、実は暗殺されたという説が根強く残っているということで、これと同時に睦仁親王も暗殺されて南朝の子孫である大室寅之祐が親王に成り代わって即位したというすり替え説は事実かどうかは不明ですが長い間語られていることです。

明治時代には陛下本人の顔を知っている人はほんのわずかだったわけで、もしこれが事実だとしたら側近中の側近以外は知らないことかもしれませんが、陛下がかなり写真を嫌っていたことを考えるとその説もあり得るのかな〜とも思いますよね。

もしこれが事実だと認められてしまったら今の皇室の家系図も大変なことになってしまうわけです・・・。

竹田恒泰は玄孫って本当?家系図は?

テレビで活躍している竹田恒泰さんはすり替え説が根強く残る明治天皇の玄孫と公言していることで注目を浴びている人ですが、これって本当?ということで家系図を見るとどうやら旧皇族の子孫のようですね。

玄孫って遠すぎてよくわかりませんが、孫の孫と言えばわかりやすいかと・・・。

竹田恒泰さんは陛下の女系の家系図で玄孫に当たるということですね。

明治天皇には正妃との間に子供が授からずたくさんの側室を持っていたことで知られていますが、その側室の一人で陛下が最も寵愛したと言われている園祥子との間に生まれた皇女・常宮昌子内親王が北白川宮能久親王の第1王子・恒久王と結婚し宮家を創設。

そこに生まれた男子が常徳王でこの時に皇籍から離脱。ここから竹田常徳と名乗り竹田宮はなくなりました。

ここに生まれたのが恆和さんでこの方が竹田恒泰さんのお父さんです。

ということは、家系図から見ても確かに皇族の血を引く子孫ということは間違いないということですが、お父さんが生まれた時にはすでに皇籍から離脱していたためお父さん自身も皇族だった時期はなかったそう。兄弟には弟と妹がいるそう。

由緒正しい、高貴な血筋の家系図を持つ竹田恒泰さんですがやはりお家柄がすごいので経歴もすごくて慶應大学の法学部法律学科卒だそう。一時期は歌手の華原朋美にお熱を上げているという報道がされていたこともありますね。

現在は一般の女性と結婚しお子さんも授かっているということです。

すごく面白いなーと思ったのは生年月日が非公開の理由。

「名前と生年月日を公表すると呪いをかけられるから」

・・・なんだそれ?と思ってしまいますが、実はこの理由から本当は名前も公表したくないということ。

ま、家系図を辿ると高貴な血筋の方ですのでね。

大昔に流行った丑の刻参りでは生年月日と名前をわら人形に書いて憎い人に呪いをかけるということですので高貴な血筋の方はどんな呪いがかけられるかわかりませんので用心しているのかもしれませんね。

ということで、今回は「明治天皇のすり替え説とは?家系図は?」でお届けしましたー!


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