三笠宮様は双子だった?子供や家系図は?

皇室見聞録管理人の咲耶です!

本日のテーマは「三笠宮様は双子だった?子供や家系図は?」です。

皇室で双子がいるのは見かけたことがありませんが実は三笠宮様が双子だったという情報が以前浮上していました。



これが本当なのかを検証するとともに家系図や子供についても見ていきたいと思います。

三笠宮様が双子だったって本当?

三笠宮様といえば超長生きで100歳でお亡くなりになったということが印象に残っていますね。

お兄様の昭和天皇もご長寿で歴代天皇では在位が一番長かったことでも知られていますが私のイメージとしては皇族の方々のような高貴な家系図を持つ人は体が弱くて短命というイメージ。

ところが逆に一般人よりも長寿の皇族方がたくさんいらっしゃいますよね。

三笠宮様は皇族の中でも最長寿というお方なんですが、実は家系図には記載されていませんが双子として御生まれになっていたという情報が世間を騒がせたことがあったそう。

この情報が真実なのかというのは定かではないようですが、男女の双子として生まれ妹は奈良県にある円照寺というお寺に預けられたということなんです。

この衝撃的な情報が出回ったのは皇室ジャーナリストの河原敏明さんが出版した「昭和天皇の妹君 謎に包まれた悲劇の皇女」という本が発端。

この中で河原敏明さんは実際に奈良県のお寺で尼になっている山本静山尼に取材を行なっています。

河原さんの説によるとこの山本静山尼が三笠宮様の双子の妹君として生まれた「糸子」という方なんだとか。

生まれて間もなくお寺に預けられ、後に出家して名を変えて「静山尼」となってひっそりと暮らしているという内容が書かれているわけですが、もしもこの説が本当なら割と最近でもこんなことがあったということに驚いてしまいます。

現在は三笠宮様もお亡くなりになり、山本静山尼もずいぶん前に亡くなっているので真相は謎のままということになりますが、宮様は生前この情報は事実ではないということをノンフィクション作家の工藤美代子さんのインタビューで明かしていました。

そのインタビューの中で宮様の出生児の体重は約3500グラムもあり、双子だったということは考えにくいということも記述されています。

現代でもこの体重で生まれてくるのはかなり大きい子供ですからそこにもう一人一緒にいるというのは今の時代でも考えにくいことですよね。

皇室がこのことを認めているわけではなく、三笠宮様も完全否定しているのでこの事実はなかったということになるのでしょうか・・・。

ただ、もしも双子というのが本当だったとして、なぜ天皇の娘として生まれてきたにもかかわらず里子に出されて尼として静かに暮らさなくてはいけなかったのか。

その辺りは後ほど検証していきたいと思います。


三笠宮様の子供や家系図は?

奈良県にある円照寺というお寺に双子の妹がひっそりと暮らしている・・・そんな情報が出回り、真相はわからないままになっている三笠宮様ですが、ここからは家系図や子供の情報をお伝えしていきたいと思います。

まずは宮様の家系図など詳細情報を見ていきましょう。

三笠宮崇仁親王・妃殿下

三笠宮崇仁親王は1915年12月2日、大正天皇と貞明皇后の間に第4番目の親王として誕生しました。

御称号は澄宮、お印は若杉。

戦争中は軍人として活動し従軍経験のある最後の皇族であり、戦後にはその時の経験を活かし戦争研究に尽力しました。

また、歴史学者としても活躍され、特に古代オリエント史、中でもアナトリア考古学を専門としていることでも知られています。

2015年に紀寿を迎え、皇族では最長寿で初めての100歳となりました。

さらに家系図を見ていくと妃は百合子様で華族高木子爵家の出身。

1923年6月4日に誕生し1941年に三笠宮様とご結婚されました。

その2年後に第一子となる甯子内親王が、その後寛仁親王、桂宮宣仁親王、容子内親王、高円宮憲仁親王と5人の子供に恵まれます。

三笠宮様が皇族では最長寿の100歳と長生きされましたが妃である百合子様は現在も存命されており、夫の宮様が薨去されてからはの皇族方では百合子様が最年長になりました。また、大正生まれの皇族も百合子様が最後となっています。

寗子内親王(近衛寗子)

続いて家系図で子供について見ていくと、第一女子の甯子内親王は1944年4月26日生まれ73歳。お印は楠。

現在の日本赤十字社社長・近衛忠煇さんとご結婚されて皇籍から離れました。

この近衛忠煇さんは第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕さんの弟にあたります。

寛仁親王・百合子妃

次に第一男子の寛仁親王は1946年1月5日生まれ。お印は柏。

ヒゲが特徴であったため「ヒゲの殿下」のニックネームで親しまれていました。

皇族という立場でありながら若い頃にはかなりのやんちゃぶりだったとご本人が発言したり、バラエティー番組に出演したり、下ネタ満載の本を出版されたりと破天荒な振る舞いが多かった殿下ですが、一方で自身がガンであることを公表し、度重なる再発に悩まされていたことに加えてアルコール依存症による入退院も繰り返していました。

結婚を機に独立した生計を立てていましたが三笠宮家の長男としてゆくゆくは三笠宮を継ぐ立場とされ宮号は賜っていないため「寛仁親王」と表されています。

皇位継承権を持つ皇族でしたがニッポン放送の「オールナイトニッポン」でパーソナリティーを務めるなど国民にとってはとても親しみのある殿下というイメージが強いですよね。

2012年6月多臓器不全のため66歳で薨去されました。それまでのガンに対する手術や治療は16回にも及んだそう。

妃は旧名・麻生信子。第92代内閣総理大臣で現在も国会議員として活躍されている麻生太郎は兄に当たります。

1955年4月9日に誕生し、現在62歳。1980年に寛仁親王とご結婚されましたが、殿下からプロポーズされたのはご結婚から遡ること8年も前、また16歳の高校生の時だったとか。

その後二人の女子に恵まれますが2003年に病気療養を理由に殿下と別居し軽井沢に移り住んだとか。

その本当の理由は寛仁親王がアルコール依存症で信子妃に暴力を振るうためそれから逃れるために避難したという説と、精神的にバランスを崩している信子妃を寛仁親王が幽閉したという説の2通りが挙げられています。

本来なら男子の子供がいないことで寛仁親王亡き後は妃である信子妃が当主を継承していくことになりますが別居状態だったことや殿下亡き後も二人の娘たちと同居していないことから寛仁親王家は家系図では廃止ということになります。

娘たち二人は父のもとに残っていましたが最近では長女の彬子女王と次女の瑶子女王が母である信子妃との確執を公表し10年以上も話していないといった確執を公表しました。

桂宮宜仁親王

続いて家系図を見ていくと、第二男子の桂宮宜仁親王は11948年2月11日生まれ。お印は桂。

戦後初めて独身のまま1988年に宮家を創設しました。

ですが宮家を創設したわずか3ヶ月後、自室で意識不明の状態で倒れているところを発見され入院、手術を受けました。病名は正式に発表されていませんが一説によると急性硬膜下血腫とされています。

その後意識を回復し退院しリハビリの結果、公務に復帰されました。

それからは右半身の麻痺などの後遺症を抱えながら車椅子で公務を行いましたが敗血症や誤嚥性肺炎など病気とつねに闘い2014年1月に急性心不全のため66歳で薨去。

桂宮様には妻も子供もなかったため「一周年祭の儀」と「権舎の儀」終了後に家系図は断絶となりました。

容子内親王(千容子)

次に第二女子の容子内親王は1951年生まれの65歳。お印は楓。

若い頃に海外生活を経験し語学が堪能だったことから皇室で外国交際の時には重宝したそう。

1983年に裏千家の家元・千宗室さんとご結婚され皇籍から離れました。

高円宮憲仁親王・久子妃

次に家系図を見ていくと、第三男子の高円宮憲仁親王は1954年12月29日生まれ。お印は柊。

現在の皇太子殿下の良き相談相手だったことでも知られ、雅子様との交際を深めるきっかけ作りをしたのは高円宮様だとか。

国際交流基金の職員として一般職員と一緒に勤務しクレーム対応などをこなしていたそう。職場では「のりちゃん」というニックネームもあったといわれ、公務や旅行の際にはお土産を職場には持参することもあったとか。

2002年11月、カナダ大使館でスカッシュの練習中に心不全で倒れ病院に搬送されましたが心肺停止の状態で、一時は心拍が再開しましたが容体が悪化し47歳という若さで薨去されました。

この薨去がきっかけとなり全国にAEDが普及されました。

妃は旧姓・鳥取久子。1953年7月10日生まれの64歳。お印は扇。

1984年に行われたカナダ大使館で行われたレセプションパーティーで憲仁親王と出会い同年12月に結婚。

同時に高円宮家が創設され、その後3人の子供に恵まれます。

この3人の女子のうち第二女子の典子様は2014年に出雲大社の権宮司・千家国麿さんとご結婚され皇籍を離れました。

こうして家系図をみていくと三笠宮様の子供5人のうち男子3人がお父様よりも早くに亡くなられていることになりますね。

親として三人も我が子を見送ることになってしまった殿下の心中はいかばかりだったでしょうか・・・。

皇室では双子は嫌われる?理由は?

三笠宮様が奈良県にある円照寺の山本静山尼と兄妹であったという情報がありますが、今の時代は双子や三つ子、はたまた五つ子の子供が可愛いと羨ましがられる時代。

ですが戦前まではこうした多胎児は皇室だけでなく一般の家庭でも忌み嫌われていたということです。

その理由は、当時は人間は一回の出産で一人の子供を生むことが当然として、多胎児を生むと畜生特にと同じということで「畜生腹」などと呼ばれていたり、不吉だという理由でどちらか一方を里子に出してしまったり、ひどい場合には生まれてすぐ始末してしまうといった恐ろしい慣習があったようです。

同性の場合でも嫌われる中、特に男と女の双子の場合には「心中の生まれ変わり」「前世の悪業の報い」とされ忌み嫌われて生まれた男子は手元で育て、女子は里子に出してしまうという考え方が根強かったと言われています。

さらに多胎児を生んだ母親も「畜生腹」と呼ばれて蔑視されるなどかなり差別されていたそうですが、昔はそれほど多胎児が珍しい時代だったのかと思ってしまいますよね。

特にこのおかしな迷信は大名や公家といった家柄を重んじる家系では家紋に傷を付けないために迷信を信じる傾向にあったそう。

そんな時代に天皇の子供に男女の双子が生まれたとなると皇室の名前に傷が付くということで生まれてすぐにひっそりとお寺に預けられた・・・ということなんです。

貞明皇后は特に宮廷のしきたりを重んじる性格であったため迷信や俗習を強く信じる方だったので我が子に心中の生まれ変わりといわれる男女の双子が生まれたとなるとなんとしても秘密にしておきたいことだったと河原敏明さんは著書の中に書いています。

確かに戦前にはこんな慣習があるということを私自身も聞いたことはありますが、今の時代では考えられないことですよね。

昔の迷信としては聞いたことがありますが、これが実際に皇室で行われたことなのか、三笠宮様に双子の妹がいたのかということの真相は解明されていません。

ただ、昔はこんなおかしな迷信によって我が子から引き離され差別的な扱いを受けるなど辛い思いをした女性がたくさんいたということは事実です。

ということで今回は「三笠宮様は双子だった?子供や家系図は?」でお伝えしました。


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